2017年5月11日木曜日

第48話 看護部長のつぶやき1(゚∀゚)

~看護部長が看護にかかわるさまざまな「気になること」を
       不定期につぶやき、発信するページです。~

皆さん、こんにちは。河本智美です。
「今年度は、ブログにつぶやくよ~」と宣言し、はや1か月が過ぎてしまいました・・・。
当院の新人看護師24名も、「笑顔で、明るく、元気よく、感謝の気持ちを忘れずに。」を胸に、それぞれの部署で右往左往している姿をよく見かけます。()

さて、新人看護師を迎え、初回のつぶやきに選んだ題材は、看護師に不可欠な「観察」です。われらがバイブルである、フローレンス・ナイチンゲールの『看護覚え書』で「われわれ看護を天職とするものにあっては、観察そのものが不可欠なのである。というのは、身についた正確な観察習慣さえあれば、それで有用な看護婦であるとは言えないが、正確な観察習慣を身につけないかぎり、われわれはどんなに献身的であっても看護婦としては役に立たない、といってもまちがいない。」と、158年前に述べられています。

さらに、「観察」をネットでググってみると、「事象や現象を注意深く組織的に把握する行為、(中略) 全体的、定性的に知ることをいう」と出てきました。ということは、表面的・数値的な測定と判断はAI(Artificial intelligence:人工知能)に任せられるが、やはり全体的な定性的に倫理観を持って「観察」できるのは人間の看護師です。なぜなら、倫理に正解はないからです。正解がないことはニューロコンピューターといえども判断できません。そもそもそれらに息吹を吹き込むのは人間にしか作れないのです。人間の世界で答えのないものはプログラムに入れ込めないからです。


そして、『看護覚え書』は「観察は、雑多な情報や珍しい事実を寄せ集めるためにするものではない。生命を守り健康と安楽とを増進させるためにこそ、観察するのである。」と続きます。さまざまな、科学技術が発達し、人間を超えるAIが出てきたとしても、倫理上成り立つ看護の視点は、決して人間以外のモノにはありません。看護の対象は「人間」であり、その人間の文化や価値観を理解せず、「観察」したシグナルのみ受け取ることはできないのです。

「観察」の力はすぐ身につくものではありません。失敗してもいいじゃないですか。人生すべての経験を活かせるのが看護師という素晴らしい仕事です。そして、その素晴らしさを感じながら看護ができる看護師こそホンモノの看護師ではないでしょうか。看護師人生の岐路に立った時、折に触れ、看護の原点に戻ることができる、そんな何かを自分なりに持ち続けることは、ずっと「看護とは」というものを追い続けることであり、初心に戻れる機会を持っていることにもなると考えます。
そう、そこの悩んでいる看護師さん!・・・(^^)/

      「看護」APRIL2017 vol.69/Number5 日本看護協会出版社 より引用参考